劇評 來來尸來『ログ』
- taichikodama
- 2019年2月13日
- 読了時間: 3分
來來尸來演劇作品『ログ』を拝見して、思ったことを書きます。
まず一言で表すと、「旅は始まったばかり」ということを感じました。
会場はライト商會の二階、古びた木造のギャラリーです。ここはアンティークの調度品を扱う雑貨屋兼喫茶店の二階ということもあり、普通の劇場よりも場の個性が強いのですが、装飾は部分的にして部屋の全体的な雰囲気は活かしてあり、出演者の服装も全体的には明るさを抑えて、会場に合わせていると感じました。
劇が始まります。女性と男性の役者が一名ずつ。劇中もう一名出てこられますが、ほぼこの二人だけで物語は進みます。最初は無言で、演技空間に置かれた椅子や、空いている客席に座るため、歩き回りします。行きつ戻りつすることで少しづつ、観客と自分たちとの間の差をなくそうとしているように感じました。
やがて二人は黙ったまま、一人は椅子の上に立って天井に手を伸ばし、一人は椅子に座って空に手を伸ばします。椅子に座った出演者の姿は、まるで立つことすら思いつかない児童のようにも、また立ち上がれない老人にも考えられました。足音、椅子が軋む音、天井と指の摩擦音……それぞれの静かな響きが楽しかったです。
言葉を発し始めます。最初はえらく身近で、実際に地元で経験したことなのかという話をしていくので、フライヤーの「遠いお話感」が念頭にあった私は少々驚きました。
でもしばらくの後、突然始まる言葉遊びと、ギター奏者(いでたちは異国風だが、日本で言うと旅の琵琶法師や虚無僧を思わせる)の生演奏により二人があっという間にどこともわからない場所を走る汽車の中に飛んでいったとき、最初の身近な場所の話や生活感ある単語のおかげで、「観客も普段生活している“今ここ”から、フィクションでしか行くことのできない場所へ行ったんだ」と考えることができました。
その後も物語は、外国語や異世界旅行を扱いながら、また最初と同じ身近な物や場所の話を織り交ぜながら、現実とフィクションを行ったり来たりし、最後に出演者はまた、どことも知れない目的地へと、当てのない旅に出ていきます。
結局、主役の二人は何者だったのでしょうか。最後まで、役名は明示されませんでした。
先へ進むことを促すように言葉を投げかけ、時に相手を振り回す女性は、姉のようにも見えました。逡巡して言葉を詰まらせながらも頷く男性は弟のようでした。時には恋人のようにも見え、また思い返せば一個人の頭の中で喋る二名のようにも思えました。
たとえば腸の表面積はテニスコート一枚分にも達し、脳の深い溝にはすべてに名前があるそうです。想像の二人が細胞サイズなら、体内だけでも大旅行でしょう。
二人とも向きによっては目が髪に隠れるので、輪をかけて「個人性」が無くなっていくように思いました。目が隠された役者がしゃべる言葉は匿名性が増し、タイトルの『ログ』もあって、ネットに散在する過去ログのようにも思えました。
ますます「誰でもある」ように見えてきます。男性のシャツに印刷された鎖はたくさんのしがらみを思わせ、それを再びコートで隠し出発しようとする姿は、色々な想いを抱えつつも、今日もまた家を出る私たちのようでした。
私にとってこの芝居は、多様な「旅」を想わせてくれる作品でした。ひどく身近なデートのようでも、勝気な姉と弱気な弟の異世界旅行のようでも、また現実の人生を送る一個人の頭の中を見ているようでもありました(作家の構想という意味を超えて)。
もちろんここは改良した方が良い、と思ったこともありましたが、それは別で団体のかたにのみお渡ししているのでここでは書きません。今後の道のりに期待です。
この作品の中で、旅人は終着点にはたどり着きませんでした。彼らの旅も、來來尸來の作品作りも、まだまだつづいていくことを想わせてくれました。
次の旅路も、観客として楽しみにしています。

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